
「危険」を避けるだけで、本当に安全なのだろうか?
最近、子どもの安全と経験と、大人の責任問題について、悶々と考えることが多い。
もちろん子どもに大きなケガをしてほしくはないし、ましてやお預かりしている子どもだとなおさらです。
ですが、何事も体験しない限り、本当の意味で危険を理解する事はできない。いくら話して聞かせても、体験が無ければ想像ができないので、知識としても定着が薄い。
最近の教育方法なのか「危険はすべて避ける。近づけない」が主流なようで、「ダメ」と「禁止」で子どもの世界が縛られているように思う。
危ないものを子どもから隠すだけでは、子ども達はその危険性を知らないまま育ってしまう。そして、危険を避ける経験を自ら学ぶことができぬまま大きく育ち、強い力で大事故に至る。
道具だけでなく、堅いもの、棒状もの、紐、段差、、、。
すべてを排除してしまったら、その場ではケガをしなくて安全だろう。
だけど、そこで学べたはずの道具の使い方や体の使い方、危険察知能力、大事に至った時の応急処置、自分はもちろん相手へのリスクマネージメント能力、たくさんの事を学ぶチャンスも同時に排除してしまっているという事を忘れてはいけない。
仕事柄、乳幼児はもちろん、小学生、中学生、高校大学の子ども達と関わる人とお話する機会が多いのだが、それぞれが「いままでの子どもだったらできていた事ができない、危なっかしい、事故に繋がる」こんな話を良く聞く。
「今どきの若い者は」という言葉は、いつの時代にもある言葉ではあるけれど、現代のそれはちょっと様子が違うように思う。今までは、「大人の思う理想通りではない若者達」を問題視した言葉であったはずが、今では「大人の言う事を聞きすぎて、言わなきゃできない、説明しないとわからない、動けない若者達」というような感じで使われている。
それもそのはず。今の子ども達は、少子化のせいもあって、たくさんの大人たちの目から監視され、管理されて育ってきた。はみ出たことをするとすぐに叱られ、子どもだけで自由にできる時間や場所は奪われ、危険な事はすべて目の前から排除されて経験したことがないのだから。自分で考えて行動することを否定され続け、自ら考えることも、危険が何であるかも、リスクを冒す事やそれとうまく付き合う方法も知らない。
それでもまだ保護者は、危険なものはすべて排除してほしいと願う。そして、子ども達の経験が激減して、子ども達の危険察知能力も運動能力も低下するばかり。そして大きい事故がおこる。事故がおこれば、学校や園の責任となる。まさに悪循環。
もはや運動会はどの競技も危険で、刃物という道具を持たせるのが怖くて授業がままならない状態。
もちろん危険なものを放置することを推奨しているわけではない。ケガすればいいと思っているわけでもない。
道具は使い方をきちんとマスターすれば、危険を自分で避ける力を手に入れることができる。体も色んな使い方をすることで、いざという時に動ける体になる。
年齢やその子の成長にもよるけれど、
どうやったら危険で、どうやったら便利で面白い効果が生まれるのか、ちゃんと伝えられないものだろうか?
「危ないから禁止」にするものは、子ども達の興味があるもの。大人の監視がなくなれば、手に入れて遊んでみたいもの。何が危険か知らぬまま「触ってみたい、やってみたい」気持ちだけが動き、大人の目を盗んで、危ない使い方をする。事故に至る。
ちゃんと何が危険かを自らの体で体験して、どうやったら使いこなせるのかを経験して知ることさえできれば、危険を回避することができる。
子どもの遊びは研究だ。一見危ない道具やものも、最初こそ危なっかしい使い方をするけれど、それさえ注意しておけば、何をどうすれば面白いか、どうしたら危ないのか、常に研究を繰り返して知ろうとする。そして、完全に使いこなせるようになったらおもちゃとして飽きてしまって、ただの道具になる。そうなれば、危ない使い方はもちろんしなくなる。
だから、使い飽きるほど遊ぶほうがよっぽど安全だということも多々ある。
子どもの安全と経験。
それと大人の責任問題は別なのだが、大人は相変わらず「自分は悪くない。」と責任転嫁したがっている。子どもよりよっぽど人のせいにする。
「誰が悪い」を追求する前に、本当に子どもに必要な体験や知識は何なのか?どうすれば、本当の意味で「危険」を避けることができるのか、真剣に考えたほうが良いと思う。